雨の朝。遅くならないうちに出る。

国立劇場の初春歌舞伎公演を見に行く。初芝居は「四天王御江戸鏑」。1月11日に続いて二度目の観劇。

こんな状況だから、コロナ禍のために急に公演が中止になることもありうる。ひと月弱の公演期間のうちに、できるだけ間を開けて二回見ることにしておけば、仮にどちらかが中止になっても安心…というのは冗談のようで、だんだん冗談にならなくなってきた。

電車に乗る前に、駅ナカのベーカリーカフェで朝飯がてら公演の予習。といっても、劇中で尾上菊之助丈はじめ役者連中が踊るダンスの元ネタを確認しておこうという程度である。NiziUという人たちが流行っている(いた?)ということさえ知らなかった。

ダンスの動画を見ていたせいで、国立劇場に着いたら案外いい時間になっていた。

しめ飾りはさすがに外されていたが、劇場のあちこちに初春の装いを残している。

前回は三階席から、今日は一階席から見る。客席から舞台への距離や角度が違えば見え方が全然違う。違うのはいいが、こんな席だったかな。事実上最前列ではあるが、この角度では却って舞台が見づらい。

開演。まず三番叟から。定式幕が引かれると、さらに紅白横縞の幕。縦縞ではない。このような幕を段幕というらしいが、半可通にはよく分からない。検索してもあまり出てこない。ネット情報を総合すると、道成寺のような舞踊劇で使うものらしい。そういえば木ノ下歌舞伎で、きたまりさんが娘道成寺を踊った時も紅白の幕を使っていた。が、あれは縦縞だったような気が。

三番叟を踊るのは、今回は尾上右近さん。これだけ舞台に近いとさすがの迫力である。気合も入っているのだろうが、こんなに声を張り上げるものなのかとも思う。見慣れていないから分からない。そういうものだったら失礼。

段幕が振り落とされると龍宮城の趣向。星鮫入道が腰に差す刀はネギだったか。

相馬御所に良門の伯母真柴(時蔵丈演)が現れ、唐突に(と感じられた)「繋馬の旗」を取り出す。正直、この時点では旗の意味がよく分からなかった。「内侍所の御鏡」をめぐる企みはよく分かるので、ここでもうひとつ意味ありげな品物を登場させる必要があるのかなと思った。が、後の場面でのこの旗の使われ方を思えば、どこかで出しておかなければならないのだろう。

花道からせり上がって土蜘蛛の精が登場。三階席からオペラグラス越しに見た時は、菊之助丈の美しさに息を呑んだが、この距離から肉眼では表情ははっきりとは伺えない。が、煙の中に浮かぶ姿もまた一興である。

女郎屋の座敷で、菊五郎丈の綱五郎が「お土砂」を撒くドタバタの場面。座敷の柱までが「お土砂」でぐにゃりとするのは、上から見た時は気づかなかったな。

菊五郎丈のコミカルな演技が楽しい。綱五郎と平井保昌が対面する場面、「面を見せい」と言われて、気をつけをする綱五郎。

行き方知れずの渡辺綱の身替わりに立てられることになった綱五郎だが、実は綱五郎こそが渡辺綱本人だったという。しかも配下の保昌にさえそのことを悟られないように綱五郎になりきってふるまい、さらに渡部綱の許嫁である弁の内侍の面前では綱五郎が一周戻って渡辺綱を演じるわけだから、考え出すとなかなかややこしい。このややこしさを感じさせず、軽々と客に見せてしまうのも菊五郎丈の明るさと大きさなのだろうか。

しかし、女郎屋で綱五郎と一緒に遊んでいた仲間たちはそのことを知らなかったのか、あるいは綱五郎だけでなく仲間たちも、良門方の目をくらますための渡辺綱による仕込みだったのか?

大詰、北野天満宮の場。帝の思し召しとはいえ、「繋馬の旗」をあっさりと良門に返してしまうのは、これでいいのかな、と思わなくもない。

休憩時間、吹き抜けのロビーにちりんちりんと鐘の音が響く。公演パンフレットに当たり券の入っていた人には手ぬぐいが貰えるのだとか。当たりが出る度に鐘を鳴らしているのだろうが、結構な頻度で鳴っている。残念ながら私ははずれだったらしい。

同じ芝居を席を変えて見たわけだが、歌舞伎を見る席は舞台から近ければいいというわけではない。むろん三階席が一番いいわけでもない。できれば三階席と舞台を結ぶ線の中間点あたりから見てみたい。空中に浮かびでもしない限り無理なことだが。あるいは「神の視座」というのは、このような場所なのだろうか。

芝居がはねて、早々に半蔵門から大手町へ。電車を降りて、地下の連絡通路を東京駅方向に歩く。

東京ステーションギャラリーの河鍋暁斎展に。

本展は三部構成。最初のフロアには暁斎による写生・模写・席画等が集められている。席画というのは観客の前で即興的に描かれた絵。このような席は「書画会」と言われて、当時一種の興行として開催されていたという。一杯機嫌で行われているから、自ずと手も出るのだろう、他の書画家の「描き入れ」も散見される。書画会図の賑やかな様子を見ていると、時代も趣旨も違うけれど、こないだ読んだ『手鎖心中』の冒頭に出てくる、山東京伝のサロンに集う気鋭の文人たちの姿も、こんなだったのかなと思う。

次のフロアには下絵類が集められている。本展では暁斎の本画は展示されていない。本画というのは下絵を基に描かれた完成作品で、基本的に注文を受けて制作されるものだったようだ。ということは、これらの下絵に描かれている画題は、同時代の人々の生活や文化を反映していると考えることができるのではないだろうか。私などは、地獄極楽めぐり図からは落語の『地獄八景亡者戯』を思い浮かべてしまうし、太田道灌の山吹の里の絵からは、まさに落語の『道灌』で隠居が語る道灌の逸話を髣髴とするようだ。現代に伝わる古典落語の演目の多くが、江戸から明治にかけての時期に成立したとすれば、これらの絵から落語の世界と同じ空気を感じてもおかしくはない。

このフロアには明治12年に上演された河竹黙阿弥作の歌舞伎狂言『漂流奇譚西洋劇』の「行燈絵」の下絵も展示されている。そうか、暁斎と黙阿弥の接点もあったのか。

河鍋暁斎 天保2年(1831)~明治22年(1889)
河竹黙阿弥 文化13年(1816)~明治26年(1893)
三遊亭圓朝 天保10年(1839)~明治33年(1900)
山岡鉄舟 天保7年(1836)~明治21年(1888)

暁斎と黙阿弥に加えて、圓朝と鉄舟の生没年も並べてみた。本展には鉄舟が賛を記した席画も展示されている。いずれも幕末から明治にかけての同時代を生きた人と言っていいと思う。

最後のフロアは絵手本、つまり暁斎が弟子のための手本として描いた絵。狩野派の伝統的な学習法を身に着けていた暁斎は、門人の教育にも熱心だったとあるが、残念ながら大成した弟子は少なかったようだ。最も著名な暁斎の弟子は、建築家のジョサイア・コンドルということになるのだろう。

総武線快速で錦糸町に出て、楽天地スパに。日曜夜の楽天地スパは静かでいい。

休憩室のテレビで近視についての番組を放映している。出演者が近視、近視と言うたび、当代桂小文枝師を思い出して可笑しい。

帰り際、受付の人に、髪を切りましたねと声をかけた。

雨は上がったし、どうせなら1万歩にしたいので、駅からの道を遠回りしてから、家のまわりをぐるぐると歩いて到達。10,137歩。

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